(1) 制定広島藩が文化年間(19世紀始め)に編集した地誌「芸藩通志」の中で各村は村名の由来を説明していますが、船越村、海田村、奥海田村の3村が一致して、「往古は包みヶ浦と称し、、、、」と記述しています。(「包み」とは「津々海」、つまり「船着場が散在する海浜の土地」の意味でしょう。)つまり、これら3村は元来、海田湾北岸に位置する一つに連なった地域として存在していたことになります。 この一つながりの地域が分断されることになった理由の一つは、16世紀末に、奥ノ谷川扇状地の先端と飯ノ山の南の裾に延びる平地を併せて海田村とし(当初の村面積は3町ないし4町)、ここを後に海田市宿としたことでした。(つまり、元は奥ノ谷川扇状地の先端部は奥海田村の、飯ノ山の南の裾に延びる平地は船越村の領域でした。このページ最下段の村図を参照。) 宿場の町割が行われ、従来あった農地は町並になり、農民は農地を提供させられ代替地を与えられて移住させられました。換わって、各地に散在していた商人や職人や流通業者が集められ、役所や宿所が建てられました。 福島正則の広島入国(1600年)以前には、この地には20軒余の農家があった、との記録がありますが、代替地を与えられ移住させられた農民はどこへいったのでしょうか? それを語るヒントが寛永15年(1638年)の船越村地詰帳にあります。 この地詰帳には92名の人名が載っていてそれぞれに船越村内に農地を所有しているのですが、その内30名が海田村の住人なのです。すなわち、海田村に住みながら船越村に農地を所有する人が30名(全体の3分の1)もあるのです。これら30人が宿場のために元の農地・宅地を手放し、代替地を船越村で得た人たちです。 船越村地詰帳に載る農地面積総計が約33町ありますが、海田の住民30人の所有地は全体的に小面積なので合計で4町余。この全てが代替地というわけではなく元々の所有地もあったのですが、彼らは元来が農業・漁業・水運業の兼業で、近世に入ってからもその役割を継続したようです。 宿場の町割が行われたのは寛永10年で、それから船越村地詰の行われた寛永15年までわずか5年ですから、代替地の決定があわただしく行われた様子が窺えます。 この30人のうち、寛永14年の「海田村のとり(野取)帳=町割を記録した文書」によると、海田市宿の町割にも土地を得た人はわずかに8人(町割全体では75人いて、大部分が外から転入した商人)、さらに、寛文元年に造成された広大な海田新開の中に土地を得た人は(寛文10年海田新開地詰帳によると)わずかに2人です。しかも、海田市で大商人となった「ねこや弥右衛門」を除くと、いずれも平均より小さい土地しか所有していません。大部分が、海田市の宿場の外れに住いを得ています。 従って、近世の海田市宿(海田村)は全面的に外から導入した資本と人で形成されたと言えます。広島城下町の発展のミニチュア版のようです。 ともかく、この地は古来からの陸路の幹線路に沿い、平地面積も充分に広く、広島城下から約2里、海田湾からの海運にも便利で、宿場の立地には最適の条件を備えていました。 (2) 町割宿場の町割の内容は「のとり(野取)帳」という文書に記されています。それによると、殆んどの商家が細長い短冊状の土地を得ています。これは、元々の農地を南北に細長い土地に細分したもので、たとえば、縦横各30間(54m)の農地を横方向(東西)3間ずつに分割して10区画に分け、街道に面して間口3間、奥行き30間の土地を10箇所造ったものです。 このようにして、全体で80箇所余の土地に分けたのが町割です。この中には「御茶屋」や明顕寺の他、特に広い土地を得た商人もいますが大部分は、間口が2間から5間、奥行きは15間から40間の土地です。 こういう細長い土地を最大限に利用して店屋を建てれば、長手方向の縁に沿って建てるのが当然です。 しかし、元来の農地は厳密な長方形や正方形ではありません。多少は菱形や台形のように歪んだ四角です。従って、町割で得た短冊形の土地も、長手方向は街道に直角になりませんから、そこに建てた商家の間口は街道に平行になりません。 その結果、程度の違いはあれ、家並みが鋸の刃のようなギザギザの形になりました。 (3) 新町屋敷寛文元年(1661年)に、宿場の西側、船越村との境界に沿って(船越村からの割譲分①と、その南の新規造成分②により) 「新町屋敷」が形成されていますが、これは宿場のために農地を提供した人達のための代替屋敷(宅地)用地でもあったようです。(右図-A参照)上記、寛永15年(1638年)の船越村地詰帳によると船越村から海田村へ屋敷地用として割譲された面積①は2.4反あります。寛文2年(1662年)の海田村地詰帳によると新町屋敷地6反が記載されていますから、船越村から割譲された土地の南に3.6反②を新たに造成したと推定されます。 右の図ーAに示されている①、②、③、④、の区域は花都川が数万年、数十万年かけて造り上げた扇状地の先端付近にあります。(飯ノ山から流れ出す境川からの土砂も重なっていますが、瀬野川が運んだ土砂はありません。) 中世以前の海岸線の推定位置もこの図に示していますが、古代以前から海岸沿いに通行にも耕作にも十分な幅の平地が存在していたのです。 また、④の「御炭蔵」は「宝永3年船越村図」の街道筋の東端に描かれている「御炭蔵」に該当しますが、ここに瀬野川流域の村(主に上瀬野村)から集まった木炭を保管し、大阪などに出荷されたもので、広島藩の直営です。 ③と④の部分は明治20年に船越村から海田村へ移籍されました。ここは、近世初期以来、海田村の住人が多く住み、利用してきた実績があったからのようです。 なお、宝永年間から幕末まで、代々の船越村庄屋を勤めた人は、当時の船越村の東端に当たる③の地域に住んでいました。 (4) 海田新開と湊右の図ーBに示したように、寛文元年に瀬野川三角州の干潟に広大な新開が造成されましたが、この時、瀬野川の川筋を北岸に移設しています。単に農地を造り出すだけが目的なら川筋の移動は必要ないはずですが、この新開の場合は宿場の南に接して船着場を設ける事を意図したようです。(各新開の造成時期と面積については、8,海田湾全干拓をご覧ください。海田市宿に集まった大商人は諸国との交易を行い、瀬野川流域の各村の物産を大阪などへ出荷するための湊を必要としていました。元来、海田湾はかなり沖まで干潟化が進み、単純に干潟を干拓したのでは船着場が宿場より離れてしまうので不都合です。そこで、瀬野川を北岸に移動させれば、干潮時でも瀬野川の流れを利用して艀(小船)を宿場のすぐ南の川岸へ接岸できます。 また、瀬野川中流域から川舟を利用して流域からの物産を宿場へ集めることもできます。 量的にどれだけの物産が出荷されたのか具体的な資料は見当たりませんが、活発な海運が行われていた事が様々に示されています。 海田市の商人の取り仕切る物産ですが、全てが海田村の船で運ぶ訳ではなく、船越村を含む近辺の村々の船も運送に与かっていたはずです。 この広大な新開に土地を取得したのは、約半数が上記のように他村から海田へ転入してきた商人ですが、残る半数は広島城下や矢野などの商人です。隣の奥海田村の村人が5分の1ほど取得しているのは大商人・豪農だったかもしれません。遠くは西条・志和の人もいます。かれらは自ら耕すことなく小作または出稼ぎに委ねたわけですから、近世初期の海田村の人口増加のかなりの部分は新開で耕作を行った小作農や出稼ぎ者です。小作農達の住む宅地として利用できたのは、移設した瀬野川の右岸(北岸)沿いの空き地だったようです。 戦国時代を通じて、命を懸けて戦った大名や家臣の武将達と、雑兵として狩り出され戦禍で農地を痛めつけられた農民達に対し、確実に財力を蓄えてきたのが商人達でした。彼らが、平和な幕藩体制化の城下町や宿場町の主人公になってきたのです。 (5) 灘道、明顕寺、熊野神社文政年間に作成された「海田市旧記」という文書に、「当村の山手にいにしえの灘道、さこの角の森元に小さきほこら藪神ありて、・・・、当村の山手にいにしえの灘道、龍王の森元に小さき阿弥陀堂ありて、・・・、文禄年中五月、洪水により道場壊し、土地も流れ、慶長初年の頃、当町の北側詰に引き、ここに小さき寺を建立して、・・・明顕寺と称え・・・」の記述があります。重点は熊野神社と明顕寺の由来を説明することのようですが、ここを通る古来の道の状態がわかります。 まず、「山手」は「海手」に対する表現で、この場合の「海手」は当時の瀬野川を挟んで南側の海田新開方面、「山手」は北側で宿場のあった街道沿いの平地を意味します。(当時、海田湾にはまだ広い水面が残っていましたから、村域を山手と海手に分ける感覚は自然のことです。現代風に表現すれば「山側」と「海側」。「いにしえ」は海田市宿ができる前の事。) 「灘」は「浜、または海岸」の意味で、「灘道」は「浜沿いの道」を意味します。 この当時の海田村(海田市)には山地は含まれていませんから、全て平地部分の説明です。(下図に示す芸藩通志の村図など当時の絵図を見ると、日浦山の山裾の南端まで(現・真田会館の裏から真宗寺の裏まで)船越村の領域になっていて、海田村の北側の山林(飯ノ山の稜線)で船越村と奥海田村が直接村境を接しています。この内、飯ノ山を含む山林15町(15ha余==図ーAの③の東方および北方部分)が幕末から明治20年までの間に船越村から海田村へ移籍されています。) つぎに、「・・・灘道、さこの角の森元・・、、、・・・灘道、龍王の森元・・」と記述しているのは、「灘道の途中に***の森元がある」ことを示しています。「森元」は「山裾」の意味ですから、灘道は山裾を経由しています。つまり、山裾と海岸との間に150mないし200mの幅の平地があり、そこを道が通っていて、途中に祠と阿弥陀堂が見える景観を記しています。文化・文政年間に作成された奥海田村の絵図には、西国街道を赤線で描き、その北側に黒線で描いた脇道が熊野神社の傍で海田市村に入っていますが、この脇道が海田市旧記に記す灘道そのものです。 「さこ」は「迫」で「谷」の意味ですから、「さこの角の森元」は「谷筋の曲がり角の山裾」で、現・熊野神社が建つ所。「小さきほこら」は現・熊野神社になったとされています。 「五月」は現代の暦で6月から7月始めですから、「洪水」は、梅雨時の集中豪雨による奥ノ谷川からの出水のようです。瀬野川河口が蟹原附近にあった時代ですから、瀬野川の氾濫ではありません。 奥ノ谷川の流路は、現・薬師寺(ひまわり観音)が建っている日浦山の尾根の先端の西側を南下します。そこに阿弥陀堂があったのを洪水で流されたので、もっと西の安全な場所に移したのが現・明顕寺だという事です。 「龍王」は「八大龍王」の意味で、水の神・雨乞いの神ですから、水源の涵養林としての日浦山の山林を「龍王の森」と称したようです。 また、現・熊野神社の敷地が数mの高さに人工的に盛り土をされて石垣で守られているのも、昔の洪水の言伝えがあったからです。 直線的で幅の広い近世山陽道(西国街道)の影に隠れてしまっているが、山裾を通る古道のあった事がわかります。全国的にも「灘」という地名や、「灘道」と呼ばれる道は多数あり、常識的に「灘道」は「海沿いの道」です。 芸藩通志に先行して編集された文化度国郡志・船越村の部でも、「奥海田村之義山続道筋無御座隣村ニ御座候」と記し、船越村は山地を介して奥海田村と隣接しているが道は通じていないのです。 ところが、ここの町内では、明治20年以前は船越村の村域だった標高50m以上の山腹沿いの細い道を「海田の灘道」として紹介しています。「海田市旧記」の書かれた文政年間の村域を誤解し、「山手」を「隣村の山中」の意味に誤解し、「灘道」を「山道」の意味に誤解し、「森元」を「森の中」の意味に誤解し、4重に誤解されているのです。 「海田市旧記」は、書かれた時点の海田村の域内の事柄であり、隣村のことまで書いているわけではありません。 「山手の灘道」を「裏山の山中の道」に置き換えた作り話は、明治20年に飯ノ山の南西側の山麓を船越村から海田村に移した後、かなり経過してから、おそらくは昭和になってから創られたものでしょう。 因みに、「山手川」は現在は太田川放水路になっている己斐と福島の間を流れていた川で、山中の川ではありません。山裾沿いに流れているから「山手川」です。 注記: 海田町史・p157は、「**市町ができる以前、この辺りは磯潟で、****。当初、東海田から船越へ通じる道は、背後の山手にある灘道であり、それは市頭から飯山に抜けていた。***」と記述しているから、上記のように典型的な誤解をしています。海田町・東町から新町に至る、現・県道沿いの標高は3mから3.5mですから、海岸線から充分に離れた陸地です。仮に、「市町ができる以前に磯潟だった」とすれば、以前の海面が現在よりも2m以上も高かったか、以後に土砂が2mも堆積しなければなりませんが、そのような天変地異が歴史時代に生じた記録は存在しません。 さらに、海田町史・p225では、「日浦山の山裾に古い墓石が多く残されているが、その墓地の中を東西に貫く細い道があり、おそらく古の灘道の姿を伝える***」と述べています。しかし、庶民が墓石を用いるようになったのは江戸時代も後半になってからで、「日浦山の山裾の墓石」が文禄年間以前に造られたものでないから、墓石を灘道と結びつける根拠になりません。 一方、海田町史・p252では、現・県道沿いの100m余南に中世末の海岸線を推定しています。これは、地表勾配を50分の1とすれば標高1mないし1.5mの線となるから海岸線として妥当な推定です。(上記、図ーAの海岸線に該当します。)p157の記述とは執筆者が異なるようですが、明らかにp252の方が合理的な判断をしています。 海田町史以外にも、山中の道を「海田の灘道」として紹介している出版物やサイトが多数ありますが、誤解に基づくものです。 |